特別寄稿
美しいガラスあるいは美しくないガラス — 歴代の受賞作品を振り返る —(2/9)
21世紀になってからのガラス界にはまた新たな方向性が見えてきている。それは映像技法との併用によるものやコンピューター・システムの活用によるものなど表現の拡張が顕著になってきているということである。こうしたメカニズムが表現における技法的支持体となる場合、つまりそうしたものを媒体=メディアとして表現されるそれらの作品にとっての「ガラス」の存在とはどこにどれほどの位置付けをされているのか、ということが先ず気になるところである。仮に「ガラス芸術」という芸術の概念にこだわるとすれば、素材としてもモチーフとしても、ガラスの存在がそれらの一部を満たすに過ぎない程度のものであれば、それをも従来のガラス芸術の認識と表現領域に取り込むことは、本音を言うと相当に無理があると思うし抵抗もある。むしろそうしたものを取り込まない別の方法を探る必要があるのではないか、というのが私のこのところの基本的な考え方となっている。
ガラスとは何か、という問いは、ガラスによる素材と造形の探求に欠かすことのできない端的な一言である。しかし今やその一言がまったくの無意味な一語に聞こえてくるような作品がガラスのコンクールに応募してくる時代となってしまった、というのが現況である。それらは明らかに“グラスアート ”と呼べる類のものとは云えないだろう。とはいえ、そうした傾向の作品が今後減少するという予想をたてるのは難しい。この避けがたい状況にどのように対処すべきか、国内外のガラス界では、同様の悩みを抱く者が少なからずいるのではないかと推測している。単純ながら方法は二つある、と私は考えている。一つは、全てを受け入れることでガラス芸術の新たな概念を模索しながら状況の変化に対応していく方法。いま一つは、ガラス芸術の概念をさらに明確とし、概念を外れるものに対しては別の芸術として切り離すという方法である。80年代のガラスのコンクールにおいて、クラフトかアートか、といった議論に沸いたことがあった。時代の動向として繰り返す芸術論のことを思い起こす。