特別寄稿

美しいガラスあるいは美しくないガラス — 歴代の受賞作品を振り返る —(1/9)

武田 厚
多摩美術大学客員教授、美術評論家

「美しい」という一つの評価が、ガラス芸術における決定的評価に連動していた時代はいつの頃までであったのだろうか。つまり「美しい」という評価が「芸術的である」という評価に自動的にスライドすることに何らの不思議も感じなかった時代のことである。

あるいはガラスは美しいもの、と思い込んでいた時代はいつのことだろうか。ガラスは必ずしも美しくない、あるいは美しくなくてもいい、と思うようになったのはどの時代からだろうか。

ガラスが造形芸術として必ずしも美しさを必要としなくなったのは20世紀に入ってからであろうか。遅くともそれ以前、既に19世紀アールヌーヴォーのガレの仕事にそういったものの兆しは見えていたのではないだろうか。

ガラスにとって「美しい」とはどんな美感によるものなのか、どんな美観を指していう言葉なのか。芸術における美しさについての概念とはいかなるものか。ここで言うガラスの美しさとは主観的な美意識下にあるものなのか客観的な美意識下にあることを意味するものなのか、あるいはそのいずれでもありいずれでもない、というものなのか。美しいガラス芸術はあってしかるべきであり、美しくないガラス芸術もあって当然である。

美しいガラスの美しさと、美しくないガラスの美しさとはどう異なるものなのか。少なくとも今の時代、その違いを見つけ出すのは難しい。ともあれ、美しいガラスはその美しさをより前面に表わし、美しくないガラスは美しくないことに無関心であることが望ましい、と私は思っている。実際、作家の多くはその通りの認識の中にあって、いまさら第三者が心配することではない。とはいいながら、審査員の一人としての私は、この度もまた、その茫々とした思いに覆われたまま審査に臨み、審査後もそれの後遺症から脱していないままでいる。

果して戦後のガラス界はどうだったのか。

いわゆる現代のガラス芸術が、スタジオグラス運動の影響を受けつつ展開されてきた中でその概念を少しずつ変化させ、同時に「美」の概念もその評価の物差しをも変転させてきたことは周知のところである。その評価の中核を成すものとしては、個別的かつクリエイティヴな表現を絶対条件とし、その上での明確なメッセージ性というものを重視するのが今日における常識的評価基準ともなっているように私は実感している。そこに「美しさ」や「詩趣性」といった感性の特質が加味されることはあっても、評価として大きな部分を占めるような入り込み方は相当に難しい状況となっているように思われるからである。